Category Archives: Essay

データマーケティング

データを使ったマーケティングによって興味深い結果を生み出した事例をいくつか目にしたので、その雑感。

まずはウェザーニューズが気象庁のデータにユーザーからの天気レポートを盛り込んだ結果、予報の精度が気象庁を超えたという例。
気象庁の大雪予報が外れた日、ウェザーニューズはなぜ、「雨」を予報できたのか (1/2) – ITmedia Mobile

次にネットフリックスのログデータから推測される、ユーザーが望む台本とキャスティングでドラマを作ったら大ヒットしたという例。
米国テレビ業界を震撼させたネットドラマ 視聴者のお望み通りに制作して大ヒット

あとは、先ごろの大統領選において、オバマ陣営がデータから票を集めたい層に最も影響を持つタレントをはじきだし、広告塔として採用したという話。結果はご周知の通り。
バラク・オバマ版『マネーボール』 大統領選勝利の鍵はビッグデータの徹底活用 – ZDNet Japan

一方でデータに振り回された結果、日本のテレビや、Googleのデザインの質が落ちていったという話もあるので、重要なのはこういった局所的なデータよりも、人間が考察する余地のある大局的なデータなのかなぁと。

テレビがつまらなくなった理由

感性によるデザイン データによるデザイン : could

デザインの進化が技術も進化させる

「デザイナーの熱い想いを形にするのが、金型の仕事です。:金型の匠 田村孔一 | 匠の職人たち | 亀山工場:シャープ」より

技術は具象物に根ざしていて、デザインやアイデアは人のイマジネーションに根ざしている。
つまり技術よりもデザインの方が柔軟で、柔軟なデザインは技術を拡張するべきで、技術はデザインに拡張されるべきだと。

常に技術よりも自分の思考が先になくちゃいけない。このバランスが理想。

一個人のスケールに置き換えると自分の持ってる技術はここまでで、じゃあその中で何ができるかなぁではダメなのね。

ほっとくとすぐ頭がテクノロジードリブンになりがちなのでメモ。

「衝動保存の法則」というものを考えた

最近あれやこれやと規制をかけたがる世の中の傾向を見ていて「衝動保存の法則」というものを考えた。

どういう事かというと、人間が行動を起こそうとした時、もし何かに阻止されてしまってもその衝動はそのまま残るという話。

例えば、ケンカ三昧の学生がいたとして、彼にケンカをするなと言って禁止をするだけではその行動を起こすに至った衝動は行き場をなくし、また別の同種の行動を引き起こそうとしてしまう。
衝動保存というのはこのケンカをしようとした衝動は保存され、また他の素行を引き起こすということ。

このことから何かルールなどで人の行動に制限を加える場合、ただ行動を制限するだけではなく、その行為を引き起こした衝動を別の方向に向けて発散させてあげる必要があると言える。
さっきの例の場合、ケンカ少年のケンカを禁止するだけではなく、ケンカに向けている衝動をボクシングや格闘技などに向けてあげる等が考えられる。
これはあまりにも安直すぎるけども、その行動を観察しどんな衝動が起こっているのかは十分に分析する必要はある。

つまりあれをするな、これをするなというだけでは人は反発するので、その代替案を提案してあげれば自発的に動いてくれるのではないかという話。

この事を視点を変えて考えてみると、何か人を動かす企画を考える時にその企画が引き起こす行為が何の代替案になるのかと考えてみる。こうすれば成否の判断がしやすくなるのではないかと思う。
当然のことながら注意しなくてはいけないのは、元の行動を比較して代替案の方が何かしらのパフォーマンスが良くないといけない。例えば元の行動よりもリスクが少ないとか、リターンが大きいとか。

無尽蔵に選択肢の多くなった現代において人をゼロから動かす事はかなり困難なので、こういったところから考えていった方が意外と近道ではないだろうかと思う今日この頃。

スコアによる弊害

最近ぼんやり考えてたことが、増井さんのこの書評で少し具体化したので一度文章化しておく。

競争目的ではないサービスにおいて、スコアと捉えられる要素が表示されることによる弊害についての考察。
※ただしこれはユーザーの思考に問題提起をしているだけで個々のサービスに対して批判をするものではありません。

favotter_cap.png
まず、Twitterを利用したサービスにFavotterというのがあって、このサービスは自分の発言をFavoriteしてくれたユーザーをその発言と対にして表示してくれる。これによって「あなたのこの発言に私は共感しますよ」とか「この発言はおもしろい」といった、言葉として返すまでもないちょっとした”評価(スコア)”を可視化してくれる。
このサービスによって、どうもFavoriteされやすい、Favorite狙いの発言をよく見かけるようになった。中にはたくさんFavoriteされるユーザー=えらいみたいな価値観も生まれているよう。
要するにFavotterによって、本来つぶやきをポストするという目的が、他人にうける発言をポストするという目的に変化すると。

ffffound_cap.png
それと同様に、FFFFOUNDの左上の~Followersという表記や、個々の画像の下にポストした順番が表示されてる。一時自分もそれを収集の目的にしてしまっていた時があった。本来の「自分が好きな画像の収集」というテーマがいつの間にか「他のユーザーがi love thisしそうな画像の収集」にすり替わってしまってた。

tumblr_cap.png
同じような事が一部のTumblrアカウントでも表面化してて、どうもReblogしている画像が他のアカウントと似たり寄ったりで個々のアカウントの特徴が希薄化してきてるように思う。
これはDashboardの自分のポストにReblogされた数や、like thisされた数が表示されてしまう為だと思う。それが収集の目的化してしまって、まるでユーザーが他のユーザーへのリコメンド作業をこなしてるようにも見える。

別段このような目的で使うことが間違ってるとは絶対に思わないし、こういう使い方もおもしろいと思う。だけどこういった「スコアとしての数字」や、「可視化された他人からの評価」に意識を引っ張られて、そもそも自分が使おうとしていた本来の目的がずれてしまうことはもったいないと思う。

この話は別にウェブサービスだけに限った話ではなく、他人の評価よりも個人のテーマやコンセプトを優先すべきだという一般的な意見にも合致すると思う。評価は結果に付随する物で、創造の過程で評価を気にすると結果がぶれてろくなものができない。

これの典型的な例としてラジオ番組、放送室で松本人志が言及していた「ヒットしたギャグと、そのギャグを作った芸人の作るギャグ第二弾の違い」が挙げられる。前者は自発的に生まれたものを他人が評価したという構図だけど、後者の場合、他人から評価される物を目的に作り、評価を待つというプロセスの逆転が起こっている。
ここでも前述したコンセプトのすり替わりが起こっているんじゃないだろうか。

まとめると、他人の評価だったり、点数のような数字はとても明快でしかも強いので意識が引っ張られやすい。しかしそれを創作のテーマやコンセプトに掲げてしまうと表面的で一過性のニーズを追いかけるという安易な手段に走ってしまいイノベーティブな思考が削がれてしまう。

そういった意味で「自分が何に向かって進んでいるのか」は常にハッキリと認識しておかないといけない。

MARGIN

余白

人間は余白を埋めようとする習性を持っている。

それによって人は未知なる対象にイメージを働かせたり、未来に夢を描いたりする。逆に理論でガチガチに固めたデザインや、物や情報に埋め尽くされた都会には辟易してしまう。
そこには自分の好きに埋められる余白がないから。

人は語りかけられないと興味を持たないが、多くを語られるとそれ以上の興味を失ってしまう。考えさせるのではなく、考える余地を与える。このことは人とのコミュニケーションを考える上でしっかりと認識しておかなければならない。

インタラクティブな作品の作り方

自分の経験上、インタラクティブな作品を作る行程はだいたい次のようになる。

1. スクリプトで動くプログラムを作る。

2. あらゆるパラメータを変数化(外部化)して自由に弄れるようにする。

3. ユーザーの動作および何らかのインプットに合わせてパラメータが変化するようにする。

およそインタラクティブな作品を作る上で1が最も重要なのは言わずもがなだが、意外と見過ごしがちなのが3の部分だと思う。プログラム自体はおもしろいのに、この部分がうまくいってないとどうもしっくり来ない作品に仕上がってしまう。

自分の経験を踏まえて、この3に関して具体的にどういう配慮をするべきなのかをちょっと言語化してみる。

まず増減するパラメータをユーザーのどの動作に割り当てるかを考える時。
この時注意しなくちゃいけないのは、ユーザーがプログラムを触ってる時、画面上で何やら変化が起こっているがイマイチ自分の動作の何に反応してるのか分からないって状況。これは触っていてもストレスを感じてしまうのであまりよくない。極力すぐにユーザーが何に反応してるのか気づけるようにする。で、それもこちらから文字なんかを使って明示的に教えるんじゃなくて、触っているうちに気付けるようにするのも大事。
ただし、あえてどの動作にリンクしているのかわかりにくくするのもアリだと思う。だけどやっぱりどこかで何にリンクしているのかユーザー自身が気づけるような配慮は絶対に必要だと思う。

次に、パラメータの増減する範囲。
これはその時々によって様々なので一概には言えないけど、基本的には制作者側である程度の閾値を設定して変化の度合いをコントロールするべきだと思う。コントロールと言っても、これは1つのパラメータに対して調節するんじゃなくて、そのパラメータをいじるとプログラム全体の中でどういうところに影響が出るのかということを考慮した上でどの程度の範囲の中で増減すればよいかということを決めなくちゃいけない。

あとはレスポンスの速度。
つまりユーザーが動作を起こしてからプログラムが反応を起こしてそれが完了するまでの時間。これは結構全体のトーンを左右するので大事なところ。ゆっくり反応すれば、落ち着いた雰囲気や高級感なんかを出せたり、素早く反応すれば、スポーティーな雰囲気が出せたりする。ただしこれもまた選択を誤ると、ユーザーにストレスを与えてしまう要因になり得る。例えばユーザーが次にするべき動作が控えているのに、プログラムがゆっくりとした反応を起こすと、ユーザーはなかなか先に進めないのでストレスを感じてしまう。逆にゆっくり見たいのに、妙に反応がよすぎて全然静止しないというのもストレスを与えてしまう。
この辺りを考慮すると、読み込み中の動作としては高速で動くものを使った方が待たせている時のストレスを軽減できるような気がする。急に数十パーセントづつ増えるようなカウンターよりも、高速にちゃんと1パーセントづつカウントアップするカウンターの方が見ていても結構気持ちがいいもんね。

とまぁいくつか書き出してみたけどきりがないのでこの辺にしとく。

で、要するに何が言いたかったかって言うとインタラクティブな作品は、ビジュアルのセンスもさることながら、触っていてストレスを感じない、むしろ触っていて快感を感じさせるようなパラメータのチューニングが必要なんだって事。
これは自分で作った作品を弄くり回して、ちょっとでも自分がストレスを感じたり、違和感を感じたらスクリプトを修正してまた弄る、でまたストレスを感じたら修正、という行為を繰り返すしかない。

まったく、自分で作ったものを弄りまわしもせず公開なんかしちゃダメだぜ。

作品を見る視点

好き嫌いだけで作品を見ていても自分の好みがわかるだけであまり学習にならないと思う。
作品鑑賞を自分の製作に活かすためには、製作のプロセス単位まで分解して、その過程で何が行われたのかまで掘り下げるべきじゃないだろうか。

そこで、以下のような分析の視点を考えてみた。

  1. その作品が解決しようとしている課題は何か?
  2. その課題を解決するためのアイデアは何か?
  3. そのアイデアをどのような方法で表現しているか?

1はその作品の作られた目的かな。何のためにそれが作られたのか。
例えば広告ならどういう対象に何を宣伝するためのものなのかとか、プロダクトだったら何をどう便利に、快適にするものなのかとか。

2は1の課題を解決するためにどんな方法を使っているか。
これは目的よりだったり、表現よりだったりもするので少しわかりにくいこともある。
例えばある課題があってその課題を解決しようとする事自体が新しい発想だったりもするし、課題解決のアプローチ自体は目新しい方法ではなくても、表現的に新しい技術を使うこともアイデアと考えられる。

3は一番表面的でわかりやすい。要するにどんな表現を使っているかってこと。ただ、製作者の意図してるであろう範囲内で媒体や配置場所など、作品の周辺環境との関係の作り方も考慮に入れる。

これらは仮説でいい。合ってようが間違ってようがあまり気にすることはない。あくまで考えることが大事だから。しかし仮説を検証することも大事。

どうも自分の周りでは3の表現にだけ着目して良し悪しを論じる風潮があるからこんな事を書いてみた。
グラフィックって分野に限って言うと、美術館のポスター作ることもありゃスーパーのチラシを作らないといけないかもしれない。だからポスター作品の良さと、スーパーのチラシの良さを両方判断できないといけないと思う。

世の中美しいものが溢れかえっているけど、もう少し地味なものにも感動していこうぜって話。
いや、これ自戒も含めて。

アウトプットについて考えた #2

頭の中で考えついたことをだらだらと綴った前回からの続き。

アウトプットに対して億劫になる一つの例として、「いいものを作りたいが、そのいいものが思いつかないので手が止まっている。」という状況がある。
おそらくこの場合、自分の中で精一杯の「いいもの」を、一回で出そうとしている。このような、目標がハッキリしない状態でスタートがきれないのは人間の心理として当然のことだと思う。

前回も「良質なもの」というのは一回のアウトプットから生まれるものではなくアウトプットを何度も繰り返す過程で生まれてくるものだ(=アウトプットの量は質と比例する)と書いた。
ということは、この場合は気持ちの中でのアウトプットの目標を質から量に切り替えればいい。「いいものを作るぞ」から「たくさん作るぞ」へ。こうすると量を設定するだけで、目標がハッキリしてきて気軽にスタートできるようになる。
当然「いいものを作るぞ」の場合に量にこだわりがなかったように、「たくさん作るぞ」の場合も質にこだわる必要はない。むしろ質へのこだわりがアウトプットを鈍らせているので質を気にしてはいけない。しかしこの行為の果てに当初の目的である、「いいものを作る」が達成できる。

先人たちが取り敢えず手を動かせっていうのはこういうしかけがあるんだな。

 

最近身内に見てるよ的なことを言われるので、こういう退屈エントリ連発で撃退してやろうかと思ってる次第。

アウトプットについて考えた #1

『有刺鉄線のアイデアはずっと長い間、そこらじゅうに転がっていた。しかし、それに気づいて行動を起こしたのは発明家のジョセフ・グリッデンだった。彼は1873年に「ウィナー」という商標で二重構造の有刺鉄線の特許を申請し、巨万の富を築いた。』

有刺鉄線のアイデアを思いついた人はたくさんいたが、結局行動に移し、世にアウトプットしたグリッデンが認められた、という話。
この話を読んで、結局アウトプットした人の方が偉いんだ、ということを再確認した。

他人の作った簡単な作品を「簡単なものだ」と言うのはたやすいが、その簡単な作品を実際に世にアウトプットするのは大変。
この場合「簡単なものだ、私でも作れる」と言っている人よりも、実際にその作品をアウトプットした人が認められるのは当然のこと。

それと同時にこのアウトプットの量っていうのは作品のクオリティと比例する。
僕の憧れるスタークリエイターはみんな信じられないような量のアウトプットをしているし、僕の周りでいいもの作ってる人たちもそう。みんなどんな形であれ、ちゃんと頭の外へアウトプットしている。
それはこの例を挙げるまでもなく至極当たり前のことだ。

アウトプットをすればスキルものばせるし、周りからも認められる。
でもどうしてアウトプットするのは大変なんだろうか?
ちょっとした気持ちの問題のような気もする。

続く

良質なインプットが良質なアウトプットを生む

自分の望むアウトプットを得るためには、まずその対象に何をインプットすればよいか考えないといけない。

例えば検索エンジンで欲しい情報(検索結果)を得る為には適切な検索ワードを考えなければいけない。
この場合のアウトプットは検索結果であり、検索ワードがインプットになる。
これは人に頼みごとをする時も同様で、この場合頼み方がインプット、それに対する相手の行動がアウトプットといえる。

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