スコアによる弊害

最近ぼんやり考えてたことが、増井さんのこの書評で少し具体化したので一度文章化しておく。

競争目的ではないサービスにおいて、スコアと捉えられる要素が表示されることによる弊害についての考察。
※ただしこれはユーザーの思考に問題提起をしているだけで個々のサービスに対して批判をするものではありません。

favotter_cap.png
まず、Twitterを利用したサービスにFavotterというのがあって、このサービスは自分の発言をFavoriteしてくれたユーザーをその発言と対にして表示してくれる。これによって「あなたのこの発言に私は共感しますよ」とか「この発言はおもしろい」といった、言葉として返すまでもないちょっとした”評価(スコア)”を可視化してくれる。
このサービスによって、どうもFavoriteされやすい、Favorite狙いの発言をよく見かけるようになった。中にはたくさんFavoriteされるユーザー=えらいみたいな価値観も生まれているよう。
要するにFavotterによって、本来つぶやきをポストするという目的が、他人にうける発言をポストするという目的に変化すると。

ffffound_cap.png
それと同様に、FFFFOUNDの左上の~Followersという表記や、個々の画像の下にポストした順番が表示されてる。一時自分もそれを収集の目的にしてしまっていた時があった。本来の「自分が好きな画像の収集」というテーマがいつの間にか「他のユーザーがi love thisしそうな画像の収集」にすり替わってしまってた。

tumblr_cap.png
同じような事が一部のTumblrアカウントでも表面化してて、どうもReblogしている画像が他のアカウントと似たり寄ったりで個々のアカウントの特徴が希薄化してきてるように思う。
これはDashboardの自分のポストにReblogされた数や、like thisされた数が表示されてしまう為だと思う。それが収集の目的化してしまって、まるでユーザーが他のユーザーへのリコメンド作業をこなしてるようにも見える。

別段このような目的で使うことが間違ってるとは絶対に思わないし、こういう使い方もおもしろいと思う。だけどこういった「スコアとしての数字」や、「可視化された他人からの評価」に意識を引っ張られて、そもそも自分が使おうとしていた本来の目的がずれてしまうことはもったいないと思う。

この話は別にウェブサービスだけに限った話ではなく、他人の評価よりも個人のテーマやコンセプトを優先すべきだという一般的な意見にも合致すると思う。評価は結果に付随する物で、創造の過程で評価を気にすると結果がぶれてろくなものができない。

これの典型的な例としてラジオ番組、放送室で松本人志が言及していた「ヒットしたギャグと、そのギャグを作った芸人の作るギャグ第二弾の違い」が挙げられる。前者は自発的に生まれたものを他人が評価したという構図だけど、後者の場合、他人から評価される物を目的に作り、評価を待つというプロセスの逆転が起こっている。
ここでも前述したコンセプトのすり替わりが起こっているんじゃないだろうか。

まとめると、他人の評価だったり、点数のような数字はとても明快でしかも強いので意識が引っ張られやすい。しかしそれを創作のテーマやコンセプトに掲げてしまうと表面的で一過性のニーズを追いかけるという安易な手段に走ってしまいイノベーティブな思考が削がれてしまう。

そういった意味で「自分が何に向かって進んでいるのか」は常にハッキリと認識しておかないといけない。